浦メシ屋奇談

音楽のこと(特にSwing Jazz)、ミステリーのこと、映画のこと、艶っぽいこと、落語のこと等々どちらかというと古いことが多く、とりあえずその辺で一杯やりながら底を入れようか(飯を喰う)というように好事家がそれとなく寄合う処。“浦メ シ屋~っ!”

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百下考(1)「明かり」の下。

「お願い‥明かりを‥消して‥」

近頃の女性にそんな恥じらいがあるかどうかは知らないが‥
恥辱心は女性の貞淑さであり、美しさであり、可愛さであり、知性であり、エロティシズムである。とはいえこの恥辱心、度が過ぎるのはこの限りではない。

「明かりを消して」と言うのは、当然のことながら拒否しているのではなく、恥ずかしいのである。観られたくないのではなく、あくまでも恥ずかしいのである。つまり意思ではなく、いわゆるこれはセンスなのだと思う。
この「恥ずかしさ」のセンスが、恥じらいこそが前述の貞淑さや美しさ、可愛さなど云々に繋がり、勝手ながら男にとっての女性への魅力になっていることも間違いない。
当然のことながら一定の域を超えた恥辱心は、この場合思考の伴う強固な意志の主張となり、前述の恥じらいに連なる一連のこととはまったく異なる意味合いになる。
それを恥じらいと勘違いして無理強いをすると尋常ではなくなる。

この場合の恥じらいには、女性の奥底の何処かに、観られるに違いないという覚悟があるに違いない。
いや、観られるに違いないという期待感と、もしそうなったらという無意識の悦びの先走りがすでにそこにはあるのに違いない。
そうでなければそう言われた幸運な男共に、あんな昂まりと加虐的な悦びを込み上げさせるわけがない。

もし私が芝居の演出家だとして、濡れ場でこんな台詞があったとしたら、そんな諸々のニュアンスを含んだ台詞を女優に言わせて、その台詞の出来栄えから、その女優の性体験を類推し、きっと思考的自慰に耽ることだろう。

こうした恥辱心を弄ぶのは、頭でするセックスのようなもので、男の、特に年を拾いつつもさまざまなことを経験して来た者たちの、治外法権的大いなる楽しみなのである。
歳を取るのも満更悪くない、とのたまわせる大きな楽しみの一つなのである。

点けるも消すも明かりは期待に満ち、その下は隠微な匂いに満ちている。
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| 百下考 | 16:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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