浦メシ屋奇談

近頃じっくり腰を据えて居続けられるところはないか、と探すようになった。メシ屋だか呑み屋だか、この裏に節操なく何でも出てくる店を見つけた。地に足の付かない、あれこれ。浦メ シ屋~っ!

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"遅かりし、お富さん!"

聴いておくべき時に聴いた演奏、と
観ておくべき時に見過ごしてしまった映画、のこと。

最近、BSなどで昔見過ごしてしまっていた名画が次々とオンエアされ、新たな楽しみが募っている。
新たなというのは、チャンネルが多いだけに今までのようないわゆる名画だけでは間に合わないらしく、二流三流どころの曰く因縁付の名画(?)にも出会えるのである。
だから番組表を見てこれはという映画は録っておいて、時間のある時に小刻みにでもまめに観るようにしている。

そんな中に、昭和35年(1960年)大映製作の『切られ与三郎』があった。
(断わっておくが、これが二流三流どころの━というわけではない。)
当時どうしてこれを観ていなかったのか分からない。映画そのものに覚えがないから、まったく知らなかったに違いない。
昭和35年と言えば私は高校生になったばかりだが、中学生の頃から映画が好きで、田舎のことで学校で許可したもの以外は観てはいけないのを隠れて映画館へ通っており、小学生のころからラジオでの落語や劇場中継などが好きで、春日八郎の『お富さん』(1954年)の大ヒットもあって知っていればこんなバリバリの芝居ものを放っておく筈が無いのである。

特に当時から好きだった市川雷蔵主演を見過ごしていたとは━
同時期の市川雷蔵の『好色一代男』や『歌行燈』、『初春狸御殿』、『大菩薩峠』、『沓掛時次郎』など結構観ているのに、しかも同じ伊藤大輔監督の芝居もの『弁天小僧』(1958年)は観ており、その翌々年公開の『切られ与三郎』を何故知らずにいたのかが不思議だ。

何故こんなに悔しがるかというと、今回その『切られ与三郎』を観てさすが伊藤大輔(脚本・監督)であり、宮川一夫(撮影)であるとつくづく思ったからであり、芝居と映画の接点をついたというか独特のエンターテイメントとでもいおうか、そしてそれに伴う宮川一夫のカメラがいい。アップが堪らない。
なんでこれを当時観なかったのかと、重ね重ね残念で堪らない。

堪らないもう一つの大きな理由は、お富を演じた淡路恵子である。
当時淡路恵子は25~6歳のはずで東宝に属しており、森繁の駅前シリーズや社長シリーズにバーのマダム役などで出ており、大抵は観ているがあまり気にしてはいなかった。
そう言えば、NHKの日曜日の『若い季節』(昭和36年)の中での、銀座プランタン化粧品の女社長の淡路恵子は良く憶えている。
この程度の印象でしかなかった淡路恵子だったのだが、それから50数年経ってから残念で堪らない思いになったのである。

この映画での淡路恵子のお富の艶っぽさは尋常ではない。
ただこのお富の艶っぽさはもちろん淡路恵子だけによるものではない。脚本・監督の伊藤大輔とカメラの宮川一夫両巨匠によるところが大きいと思う。

我々が良く知るお富と切られ与三郎は━
与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、 いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
━のやり取りでお馴染みの玄冶店の場である。
この後の台詞に━
「お主やぁ、俺を見忘れたか…しがねぇ恋の情けが仇。命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、巡る月日も三年越し…」と続くのだが、木更津でのお富との出会いから色恋沙汰で命のやり取りをするような危ない目にあいながら、お互いに死んだと思いながらの江戸の玄冶店での再会ということなのである。

この木更津での市川雷蔵の与三郎と、淡路恵子のお富との出会いが何ともいい。
江戸を離れて木更津で新内の流しをしている与三郎の三味線を、やはり江戸から落ちてきていたお富が耳にして、「おや、本筋だよ、この三味線」と気にかけ、次に来たときに呼び上げる。
ここで女は恐い、と避けようとする与三郎を、「太夫、女のあたしに言わせる気かい?」と淡路恵子のお富が迫るのだが、この演出とカメラと淡路恵子の演技が、もうどうしようもなくいい。
このシーンを50数年前の高校生の時に観ていたら、と思うと何とも悔しいのである。

市川雷蔵の与三郎の顔にとまった蚊をお富がとってやり、「今度はあたしの番だ」と左頬にとまった蚊を与三郎に教えとってもらおうとするのだが、その時の淡路恵子の顔の演技が…この年にして、あゝなんてこった!というくらいぞくぞくした。
少年時代に観ていたら、きっと女性観が、いやいや人生観までをも変わっていたに違いない。
映画「切られ与三郎」淡路恵子
あの頃私は高校生のくせして瑳峨三智子(山田五十鈴の娘)にぞっこんだった。
淡路恵子は瑳峨三智子より二つくらい上のはずだから、その二つの差がいろいろと出ているのに違いない。
とにかく、あの頃知っておくべき(?)おんなの艶っぽさだったと今にして思うのである。
そのくらいに凄かった。

音楽、ジャズにも聴くべき時に聴くことができて良かったという演奏がある。
昭和32年(1957年)ベニー・グッドマンのオーケストラとともに来日したピーナッツ・ハッコーを加えて吹き込んだ、鈴木彰治とリズムエースのコンパクト盤『鈴懸の径』が、私にはそうである。
もちろんタイトルの『鈴懸の径』の演奏も良かったのだが、裏面の『I Surrender Dear』(この演奏にはピーナッツ・ハッコーは加わっていない)に、当時中学生だった私はいたく惹かれた。
この『I Surrender Dear』に中学2年の私は恋を、恋の切なさを教えてもらったような気がする。
以来いまだにこの時の『I Surrender Dear』を時々聴いている。
私の音楽(ジャズ)観、いささかオーバーのようだが人生観にも影響を及ぼしているように思う。
昭和32年、レコードとは言えリアルタイムであの演奏に立ち会え、聴くことができて、ホントに良かったと思っている。
その『I Surrender Dear』については、別の時に書いてみようと思う。
鈴木章治とリズムエース「I Surrender Dear」

あの少年の頃、音楽で恋の切なさを知るとともに、映画でその恋の相手となる女性の色濃さを知っていたとしたら…我が人生ももっと面白かっただろうなと思う反面、恐ろしい気がしないでもない。

その淡路恵子も昨年(2014年)1月11日に亡くなられてしまった。
心からご冥福をお祈りいたします。(合掌)
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| 雑感 | 14:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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談志が死んだ。

15~6年前まで、私は立川談志の噺があまり好きではなかった。

六つか七つの頃から大人に混じってラジオで落語を聞いていて‥桂三木助(三代目)、三遊亭金馬(三代目)、三遊亭円歌(二代目)、三笑亭可楽(八代目)、春風亭柳橋(六代目)、春風亭柳好(三代目)、古今亭今輔(五代目)、桂文楽(八代目)、古今亭志ん生(五代目)、三遊亭円生(六代目)、柳家小さん(五代目)、柳亭痴楽(四代目)など、ラジオに噛り付いて聞いていた。
NHK以外の放送は、田舎のことでシャーシャー言うラジオでやっと聞いていたのを思い出す。

私が立川談志を知ったのはそんな頃からさらに5~6年経ってから、真打に昇進(1963年)してからで、良く知るようになったのは日本テレビの「笑点」の司会をするようになってからだ。(1963年)
先日NHKを観ていると、あの「笑点」の司会も初代となっているが、本当は番組企画を考えた時、三遊亭円楽(六代目)を立てていたらしい。
ところがいざ開けてみたら下手糞でどうにもこうにもならないんで(さもありなん)、しょうがなく談志自身でやることになったと言うことで、正式には二代目だと自ら言っていた。

談志の何を最初に聞いたか憶えていないが、何だか小うるさい落語だな、と感じたのを憶えている。
それに握った左手の突き出た第二間接を左ひざに立てて座っている仕草や、右手の人差し指と親指だけを立てて動かす仕草と同時に首を前に突き出し口を曲げる仕草。
さらに上下の顎を少しずらして口を開き、「あー、あー!」と相槌を打ったり頷いたりする仕草‥
当初、私はこれらが気になって気になって仕方がなく、噺を聞いていられなかった。

そのうちに「落語は人間の業の肯定だ」と言う落語論を聞くにいたっては、落語はとてつもなく大変なものなのだ、と首を引っ込めそうになった。
どこかの誰かじゃないが「たかが落語でげしょ!」と、懐手に鼻歌で科を作って通り過ぎようかと思ったものだ。

大好きとはいえ、大体落語をそんな視点で眺めたことも考えたこともなかった。
三木助の「芝浜」や「へっつい幽霊」、金馬の「居酒屋」や「薮入り」、可楽の「らくだ」や「うどんや」「二番煎じ」、あるいは柳好の「野ざらし」や「青菜」、さらに文楽の「明烏」や「船徳」等々など‥ただただうまいなぁ!面白い!と喜んでいただけなのだ。(もちろん、それで良い筈だが‥)

が、演じる側は時代背景だの生活習慣だのを考え、人情だの非情だの、常識を逆手に取った残酷さなど、誰もが持っているであろう人間の裏までをあっさりと曝け出して、その手際の良さで笑わせる、工夫をしているのである。
浅はかにも初めてそんなことを考えてみて、そうかだから落語は面白いのだ、離れられないのだとおもうと同時に、やはり落語は大変なものだと改めて思ったものだ。

そんな時、談志自身が弟子に「野ざらし」の稽古をつけているCDを聴いた(「談志の世界」。
これは面白かった。普通なら、師匠が弟子に稽古をつけているところなどに立ち会えるわけがないのだが、これはいろいろな意味で噺家でもない我々のためにもなった。
このCDを聴いて、多少大げさに言えば、落語が自分の人生に如何に役立っているかと言うことに気が付いたのである。

何でも無いような一言でも、キーになる言葉と言うのがある。
「野ざらし」の中の━
夕べとなりの隠居のところへ訊ねてきていた女が、実はこの世のものではなかったと八っつぁんが知るところで━「あんないい女ならおば(お化け)でも、ゆうた(幽霊)でも━」と言う。
このくだりを調子よくつらつらとやっておいて、突然「こう言う言葉は残しておけよ!」とポンと言っておいて、サッサと次へ行ってしまった。
これは、その前にも熟語(忘れられていく言葉)に対する配慮をしなさい、と言っているが、いかにもこう言う表現は落語のセンスとして残していくべきだ、と言っているような気がした。
ちなみに柳好(三代目)はここは「ゆうてき」と言っている。

それから「野ざらし」の聞かせ場の一つに、釣りをしていた隠居がまったく釣れないので帰ろうと糸・竿を仕舞っていると、金龍山浅草寺で打ち出だす暮れ六つの鐘(柳好だと、多門寺入会の鐘)が陰に籠もって物凄くボーンと鳴ったなぁ━
「四方の山々雪溶けかけて、水かさ増さる大川の、上潮南に岸を洗う水の音がザブーリ、ザブリ‥」とのやはり名調子のくだりがあるが、ここで談志は━
「これ、春と夏が一緒んなっていて可笑しいんだ。可笑しいんだけど昔からこうやってるんだからこれはこれでいい、と言うんならこのままやればいいし、可笑しいと思えばやめればいい。」
つまり自分の噺として、どんなことでも自分の中でちゃんと筋を通してやれ、と言うことらしい。
なるほど、師匠の噺を口移しで教わり、そのまんまをやるとは思わないが、例えちょっとした一言でも諸々を考えた上でしゃべると、噺の奥行きや味わいが違ってくるのに違いない。面白いものだと思った。

この人はやっぱり凄い人なんだろうなと思い始めたのは、十数年前になるか「鉄拐」を聞いたときだと思う。
断っておくが、私が聞いた「鉄拐」は名演と評判の高座(2007年)のものではなく、もっと前のものである。
その時、こんな地味な噺をじっくりとやる談志と言う噺家はなんなんだろう、と思ったものだ。
もっと面白い得意な噺がいっぱいあるんだからそれをやればいいのに、ここに立ち会った客はついてないナ、などと思いながらいつの間にか引き込まれていったのを憶えている。
その時は、以前気なって仕方がなかった仕草のあれこれがまったく気にならなかった。というより、そんな仕草をしていたのかどうかも憶えていない。

落語は面白いことを言うから面白いのではなく、その噺家のセンスが面白いのである。
志ん生がやったくすぐりを志ん朝がやっても、さほど可笑しくなかったことがある。親子とはいえ、志ん生にはあっても志ん朝にはそのくすぐりのセンスが無かったのだと思う。
落語はそのそれぞれのセンスで噺を、言葉を裁く手際の良さが可笑しいのだろう、とその時の談志の「鉄拐」を聞いていて思ったものだ。

そういえば、前述のCDの「談志の世界」の中に、池袋演芸場での漫談が入っている。
その中に━
「昨日、3時間も『芝浜』をやったら、声がこんなんなっちゃった。喉が弱くて━医者に言わせると20パーセントぐらい喉頭がんになる可能性を持っている、と言われた━」と言っている。
この頃から喉はあまり良くなかったのだろうか。入院するのはそれからまだズーッと後のことだが━

古今亭志ん朝が亡くなった時は、あのとんとんとんとん、と調子で話す噺が年をとったらどうなるのか確かめられなくなったのが残念だったが、仕方がないと諦めた。
立川談志がいなくなった今は、ただただ、もっともっと聞いておけば良かった、と日が経つにつれて残念に思うこと仕切りである。

それと浪曲や漫談などのお笑いと寄席芸、いやお笑いに限らずフレッド・アステアなど海の向こうの芸やジャズなどの博識さと分析の面白さ‥やはり持ってっちゃったんだろうね、向こうへ。ああ、もったいない‥。

※敬愛の念を込めて、敢えて敬称は略させていただいています。

| 雑感 | 09:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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堀越 彰の音楽圧、「カルチェ・ラタン」。

半年前の6月のある日、演奏旅行での立ち寄り先バース(オーストラリア)から、ドラマーの堀越 彰からメールが入った。
そこには彼の昨年末の『狂詩曲 rhapsody』(「衝撃のコンサート」)につづいての11月博品館公演『Quartier Latin』(カルチェ・ラタン)の、冒頭シーンのコンテ(設定・展開プラン)がビッシリと書いてあった。

前提の説明など何もなく、いきなりパリのカルチェラタンの片隅の酒場でのシーンの描写である。が、私は何の戸惑いもなく、彼のコンテに添ってそのドラマチックな世界に突入していった。
昔居た広告の世界の虫が動き出し、読みながら思わずカット割り(映像化する時のカメラの動きと、画面構成)をしていた。
しかしこれは私の昔の仕事柄、こういう形でのめりこんでいったわけではない。

11月9日、『Quartier Latin』公演の当日、私は前以て誘った、たまたま女性ばかりの友人8人と、博品館で落ち合った。
私は彼女らを誘うのにチラシを見せ、面白いから観にいってご覧!としか言わなかった。というより、そうとしか言いようがなかった。
冒頭シーンのコンテを垣間見せてはもらったが、それがどういう構成の元にどうステージにされるのか知る由もなく、また昨年公演の「狂詩曲 rhapsody」の説明をしながら堀越 彰の世界を説いても、私のコトバでは陳腐になりそうでとても彼の表現しようとした域にまでは届きそうにない。
だからチラシを見せて黙っていると、全員が行きたい!と即返してきた。
Qualtier Latin

ラテンとヨーロッパが交錯するパリ、カルチェ・ラタンの片隅。
薄暗い酒場、喧騒の中でシャンソンを爪弾くギターリスト。
やがてそのギターはあたかも暗闇の中で目覚めた怪物か何かのように激しくなり、椅子代わりの箱を打ち鳴らすパーカッショニストとともに、もう一人のギターリストを呼び込み怒涛のような合奏となる‥

冒頭のメールの件同様、堀越 彰という男はあまり前以てくどくどと説明することを好まないのだろう。
いきなり我々の予測し得ない世界へ引きずり込んでいく。かなり暴力的にである。
しかし暴力的とはいえ、引きずり込まれた我々はすぐに納得させられるから並ではない。
納得させられるどころか、その先を恐々ながら探ってみたくなる冒険心を煽りながら次から次へと展開してくるから、昨年同様まったく休憩なしの1時間半が瞬く間に終わってしまった。

初めて堀越 彰の世界を体験した、私の知り合いの女性たちも芝居仕立てのトップシーンで度肝を抜かれたことだろう。
実は私は彼女たちを誘うのに、コンサートとは一言も言わなかったのである。

ステージ上に配されたミュージシャンが開演と同時に演奏し、MCが入って演奏が繰り返される。そして休憩が入り、2部が始まりやがてフィナーレになる━そういういわゆるコンサートとは一線を画すために、あえてコンサートとは言わなかったのである。
つまりいわゆる従来のコンサートという概念にはおよそ入らないと思ったからである。
かといってどういう概念の範疇のものであるかは、私の乏しい知識では思い当たるものがなかった。
というより、昨年の公演で「そうか、音楽もこういう表現方法があるのか!」と教えてもらったのである。

前述の女性たちも、コンサートとは言われていないまでにもいわゆるコンサート(音楽会)だと思い込んでいて、当然いつものコンサートの段取りでことは運ぶであろうと待ち構えていたはずである。
ところがさにあらず、いきなり芝居仕立てでステージは開いた。
そして次々とドラマチックに繰り広げられるラテンのリズムと歌、そして官能的な踊り(フラメンコ)。
初っ端の驚愕は即興味へと変わり、次にどんな音楽体験をさせてくれるのかと好奇心を呼び起こし、いつの間にかドキドキしながら前のめりになって堀越 彰の世界を探検していた。
そう、これはまさに探検である。異様ともいえるほどの高密度な空気の中を、我々は息を呑む思いを繰り返しながら次の演奏は、次の踊りはといつの間にか首を前に突き出すようにして進んでいった。

そんな高密度な空気を創り上げているのが、6人のプレイヤーである。
AMI鎌田厚子(Baile フラメンコ・ダンス)、堀越 彰(ドラムス、パーカッション)、石塚孝光(Cante フラメンコ歌手)、片桐勝彦(ギター)、林 正樹(ピアノ)、白土庸介(ギター、ベース)。

今書いていて気が付いたのだが‥普通コンサートと言うのは演奏する側がいて、聴く側がいる‥つまり我々聴く側は、演奏する側、つまりプレイヤーの演奏を待って味わい楽しむものである。
ところがこの『Quartier Latin』にしても、昨年の『狂詩曲 rhapsody』にしても、我々は聴く側にいる意識とは違う何かがある。
ちょっとオーバーに言えば、音楽が、踊りがステージから放たれた瞬間に我々聴(観)衆は共有してしまう━空中に放たれて、我々の眼に耳に届くまでの僅かな時間とはいえ多少なりとも減衰したものを鑑賞するのではなく、プレイヤーが発する音楽圧そのものを受けとっているのであろうと思う。
だからプレイヤーが発揮する探究心や創造力、情熱、さらには彼らが張り巡らせている緊張感までをもそのまま受け取り、プレイヤーと一緒に音楽をやっているのである。
そうだ、そんな感覚が探検であり、受け身で聴くだけではない前のめりになって、コンサートに参加している感覚なのであろう。
これは彼らだからこその、独特の音楽圧を備えたミュージシャンのなせる業といえよう。

改めて思う。音楽もこういう表現方法があるのだ、と━
しかしこれは技法の問題ではなく、音楽そのものに、コンサートそのものに対してしっかりとしたコンセプトを持っているかということになるのだろう。
そのコンセプトに沿ってどうあるべきか、あるいはどうやろうかと考え、組み立てるのだと思う。

いずれにしても音楽の可能性と面白さを改めて思う。
これからの堀越 彰の世界が、大いに楽しみである。

※敬称は略させていただいています。

●『Swingin’ (2nd)~この素晴らしき世界 in 渋谷』(浦山隆男プロデュース)
期 日:12月6日(火) 
open 18:30(ビュッフェスタイル食事スタート)
start 19:30 (2回、入れ替え無し)
場 所:渋谷シダックスビレッジ1F 東京メインダイニング(03-5428-5031)
チャージ:\5,500(Mチャージ+ビュッフェスタイル食事+1ドリンク)
予 約:東京メインダイニング tel.03-5428-5031
    Swing Ace tel 03-6768-8772 fax 03-6768-8773 e-mail ticket@swingace.com
    Wonder Jazzland e-mail wonder@jazzland.jp

●『鈴木直樹(cla) + 大橋高志(pf)デュオ』(浦山隆男プロデュース)
期 日:11月29日(火)
    open 19:00 start 19:30~ 2回(入れ替えなし)
場 所:西荻窪「ミントンハウス
予 約:ミントンハウス03-5370-4050
チャージ:\2,500(飲食別)

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風の記憶

我々は死ぬまでの間に何人の人と出会い言葉を交わし、そしてお互いにどんな影響を与え合えるのだろうか。

(そういえばあいつどうしているかな、たまには会いたいな!そのうちに連絡してみよう!)
今までだったら、それで終わっていた。ところが近頃は、そんな風に感じた1年後くらいの間に亡くなったという知らせを聞くことがままある。
そんな時は、一度は会いたいなと思っていただけに、悔恨の念に苛まれる。
面倒くさがらず、会いたいと思ったらその足で訪ねればよかった。
以来、余り考えずにアポを取り出かけることにしている。

例え付き合いは浅くとも、訃報を聞いて(そうか、残念だな‥)だけで済まし終わらせられないのがこの頃である。
あの頃、あの人とは短い期間だったが、そう深くはないが関わりあい、こうして名前や面影はもちろん仕草も口調も憶えている。
長い人生で言えばほんのすれ違っただけのような関わりあいだけに、その後の自分の道程と照らし合わせるかのように、あの人も知らないところで頑張られていたんだとしみじみ思う。

普段は想い出すこともないのだが、亡くなられたということが感慨を新たにし、自分の中でのその人の存在が新しい意味をもってくることがある。
それは単に懐かしいというようなこととも違う。亡くなられたからこそその人の世界を垣間見ることができ、また触れることができることが多いのだ。
人の生きていくことの凄さを改めて感じ、反面その凄さが一瞬にして止まる死とは何なんだろうと考え込んでしまう。
作品1

40年ほど前、まだ駆け出しのコピーライターの頃、3年ほど同じプロダクションで一緒に仕事をした方がいた。
一緒に仕事をしたといっても私は広告制作部門で、その方は百科事典などの編集部門で絵を描いておられた。
あまり顔を合わすことはないが、新聞や雑誌広告のアイディア・スケッチやテレビ・コマーシャルのストーリー・ボードの絵を描いてもらっていて、その時々にお話をするくらいだった。

宮下(勝行-まさつら)さん。
かなり上背もあり、髪を伸ばしがに股ですたすたと歩くさまを見ると何だろうこの人はと思うほどだが、めがねの奥の眼は優しく、口調は穏やか‥
我々の仕事のために描いていただく絵は、下絵の鉛筆が走り、その上の水彩の淡い色合いが何とも言えない、そのまま自分で持っていたいような絵だった。
撮影前のポスターなどのイメージコンテなどの大きな絵はもちろん、雑誌広告やリーフレット用の小さな絵なども見事だった。

かつての広告業界には、広告などのアイディアをスポンサーに見せるためにすべて絵に描くカンプ(comprehensive)マンという専門職がいたが、当然といえば当然のことだが宮下さんの絵はそんなカンプマンの絵とはまったく違っていた。
アートディレクターやデザイナー連中と出来上がった絵を見ながら、ほとほと感心していたものだ。
もともとは東京芸大の油絵を出られて画家として創作活動をされながら、我々の仕事を手伝っていてくれたらしい。
その頃すでにシェル美術賞(’62年)などをとられている等、実績のある画家であったのだ。
そんな方に、仕事とはいえ作品にもならない我々の絵を描いていただくことが心苦しかった。仲の良かったアートディレクターと、当時よくそんな話をしたことを想い出す。
作品2

そのプロダクションから私は広告代理店に変わり、しばらくしてその親しかったアートディレクターも若くして亡くなってしまった。
以来、当時のことをほとんど想い出さなくなっていた。
そんな折、ついこの間、同じプロダクションで宮下さんと組んで仕事をしていた女性のアートディレクターから、久し振りに電話があった。
「宮下さんが紀伊国屋で個展をやってるの。今度の土曜日、行かない?あ、そうそう、宮下さん亡くなったのよ!」

「ああ、そう‥」
私はそういったきり、言葉が出なかった。
そう親しくもなく、顔を合わせていた期間も40年ほど前のほんの3年ほど‥。あの厳つい体つきと歩き方、そして髪。それに何故か下絵の、走った鉛筆の跡と淡い水彩の色合いが頭を過ぎった。
そうですか、亡くなられましたか‥

翌週、その個展の最終日の火曜日に、新宿の紀伊国屋画廊に行った。
『宮下勝行展-遺作-』

考えてみれば私は宮下さんの世界をまったく知らなかった。初めて観た。
観る人によってはおどろおどろしいととるかもしれない。
前回の作品展の時の方が、もっとおどろおどろしかった、と話されているのが聞こえた。
今まで頭の中にあった宮下さんのイメージと、あまりにもギャップがあったので一瞬驚いたが、すぐに私は初めて接する宮下さんの世界に入り込んでしまった。
私にはむしろ快適だった。どの作品も内容に伴う色の変化が何とも快かった。

宮下さんはリヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」を好まれて聴いておられたそうだ。
私はリヒャルト・シュトラウスはあまり、いや殆ど聴かないので分からないが、私が宮下さんの絵を観てドキドキするような快感を感ずるのは、私が小学生の頃むさぼるように読み耽った「宝島」や「ガリバー旅行記」、あるいは「15少年漂流記」、さらにエドガー・アラン・ポーの「黄金虫」や「メールシュトレームの大渦」などに対峙した時と同じなのである。
作品3

「対峙した時」と敢えていうのは、この途中で止めるなんてとてもできない興味ふんぷんの不可思議で恐ろしいドラマは、実は自分とはまったく関係のないところで起きていて、自分は映画のスクリーンを観るようにただただ心底から楽しめるんだと言う快感なのである。
ある意味、そのドラマには無関係なだけに楽しんでいられるという下世話な楽しみ方ともいえよう。
とはいえそのドラマの出来が良くなくては面白がれないのは当然のことである。

宮下さんの作品には、私が忘れていたドラマに対する興奮を思い起させてくれたよう気がする。
音楽体験で言えば、やはり小学生の頃ムソルグスキーの「禿山の一夜」を初めて聴いた時の興奮に似ている。
私は絵画をちゃんと評することなどできない。が、宮下さんの作品には、いままで絵画に対してそんな風には感じたことのない、不思議なドラマを感じた。

その宮下さんはもういないと言う。
40年ほど前、打ち合わせに会社を出て駅に向かっていると、少し遅く出勤してくる宮下さんと会うことがあった。
バッグを抱えて(確かいたと思う)ガニ股ですたすたと歩いて来て、挨拶とともに一言二言言葉を交わしてすれ違う。
無造作に伸ばした髪がなびき、ふわっと風を感じた。

そんなに付き合いがあったわけでもない。しかしもうお会いできないと知った途端に印象強く心に刻み込まれる‥長い人生の間にはそんな方もいるものである。

※宮下さんの奥様の許しを得て、会場で作品を撮らせていただいた。
ここに何点か紹介させていただくが、私のカメラ技術が稚拙なために微かに歪んでいたり、大切な色彩が正確に出せていない。平にお許しいただきたい。

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四万六千日、お暑い盛りでございます!

暑い、暑い、暑い!
この暑い盛りに浅草寺へ、四万六千日のお参りに行ってきた。

いつもならこの7月10日の四万六千日の縁日直後の土曜日に、「屋形船で落語を聴いて飯を喰う会」というのをやっていて、そのお客さんのために1升の米を持ってお参りに行き、その米を縁起物としてお土産にお持ち帰りいただいていたのだが、今年は浮かれた催しは一時中止ということにして、ただお参りに来たのである。
浅草寺

四万六千日というと、落語の「船徳」だろう。といえば黒門町(八代目桂 文楽)だろう。
その黒門町のお決まりの「四万六千日、お暑い盛りでございます!」の口調通り、暑かったのなんのって‥いやぁ、暑かった!
しかし暑ければこその四万六千日の縁日で、「船徳」のごとく舟にも乗りたくなるということだろう。
ただ今年は人の出がいつもより少なかったのではないだろうか。
本堂の中も、それほどの押し合い圧し合いでもなかった。

ただ舟に乗っての涼味こそなかったが、なんともいえぬ爽やかさを得ることができた。
古今亭志ん朝の「付け馬」じゃないが、大体観音様の前にいるのは鳩の豆を売っている「もう、あそこまでいくともう歳をとらないのかねぇ!」というような婆さんばかりかと思っていた。
ところが、ところがである。スタンダード・ナンバーの「I Found A New Baby」じゃないが、そう、飛び切り若いいい娘(こ)を見つけたのである。

「年のころなら、6つか8つ!」
「おいおい、お前さんのは妙な数取りだな!年のころなら6つか7つ、あるいは7つか8つというのなら分かるが、それを6つか8つとは‥え~?お前さんのには7がないよ!」
「へぇ~、7(質)はこの間流した!」

と、「野ざらし」のごとき馬鹿なことを言っている場合ではない。とにかく若い。10歳そこそこ━
若すぎるくらいに若いが、そこは浅草、観音様のお膝元、ほおずき市、その出で立ちからして何ともいえない可愛さと艶っぽさが行く末のいい女の素養を充分に漂わせている。
この娘の10年後を想像しただけでも色めき立つ。
胸のうちで勝手にお初ちゃんと名づけてしまった。
そんなお初ちゃんに会えただけでも、このバカ暑い中を汗をかきかき出かけてきた甲斐があったというもの。
写真を撮らせてもらうと同時に、思わず手を合わせてしまった。まさしく観音様である。
どうです!可愛いでげしょう!?

それにしても暑い。五分刈りの坊主頭が焦げそうだ。
朝のうちはお日様も隠れていたから、普段愛用のボルサリーノのパナマ帽をかぶってこなかった。「船徳」じゃないが、せめて日除けのコウモリ傘を持ってくればよかった。
「船徳」のように川で舟に乗ってるわけではないから、傘で岸の石垣を突いて石垣の間に挟まって置いてくることもないだろうが、日傘など普段持ちなれないだけに帰りに寄ったところてん屋にきっと忘れてきたに違いない。

この「船徳」は「お初・徳兵衛浮名桟橋」の前段で、これからが色っぽくなってぞくぞくするほど面白い。
先ほどのお初ちゃんは、実はここに繋がっているのである。
来年も四万六千日のほおずき市に、あの店に寄ってみよう。
暑いだろうな‥白日夢のように‥

四万六千日、お暑い盛りでございます!

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