エストレリータに会いたい…
ここ何年か、ある女性のことが時々気になる。気になるというより、どうしているだろうか、とふと想いに耽るということだが━
随分前になるが仕事で地方へ行った時、ホテルで夜中に所在無くテレビのチャンネルをあちこちへやっていると、古いアメリカ映画の「姉妹と水兵」に出くわした。思わぬ儲け物をしたと見入ってしまった。
というのはこの「姉妹と水兵」(原題「Two Girls And A Sailor」1944年アメリカ)には、主演のヴァン・ジョンソンやジューン・アリスン、グロリア・デ・ヘヴンなどの他、まだバリバリのハリー・ジェームスやザビア・クガートが彼らの楽団とともに出演しており、特にハリー・ジェームスはア・カペラのトランペットで「エストレリータ」を吹いているのである。
それに地方のホテルで深夜この映画に巡り合わせたあの時は、観たい観たいと思いつつもまだ観ていなかったから、まさに小躍りして喜んだ。しかもあの頃はハリー・ジェームス(1983没)もザビア・クガート(1990没)もまだ盛んに演奏活動をしていたから、彼らのナマの空気を感じ取りながら観ることができたのが、今考えればうれしい。
それに「エストレリータ」は、中学生の頃から特別の想いを感じつつある大好きな曲だったから、しかも旅の空の下多少なりとも寂寥感に染まりつつ観て聴いたものだから、なんとも言えない感慨に陥ったことを憶えている。
「エストレリータ」を初めて聴いたのは前述のように中学生の時、トリオ・ロス・パンチョスの歌と演奏だった。レキントギターの硬く高く弾けるような音と彼らの独特のハーモニーで、初めて聴いたのにも関わらず懐かしい想いがしたものだった。スペイン語は皆目分からなくても、何回も聴いているうちに曲想は微に入り細に入り噛み締めることができた。そしてすっかり「エストレリータ」に恋してしまった。
マヌエル・ポンセ(1882-1948 メキシコ)の書いた曲(作詞・作曲)がいいのか、トリオ・ロス・パンチョスの演奏が良かったのか‥とにかく泣きたいくらいに良かった。その後、様々な「エストレリータ」を聴いた。が、どの演奏もそれぞれ心に響くのは、やはり曲がいいのだろう。King Of Swingと呼ばれたクラリネットのベニー・グッドマン、それに前述のハリー・ジェームス、そしてニューオルリンズ派のやはりクラリネットで馬鹿テクのピート・ファウンテンetc.etc.
「エストレリータ」とは「小さな星」という意味だという。恋する乙女心をエストレリータ(小さな星)に託して彼に伝えたい、という歌詞らしい。(スペイン語に長けている方にお聞きすると、男女どちらでもいいとのこと。)
が、初めて聴いた時から、「エストレリータ」は女性の名前だとかってに思い込んでいるから、いろいろな人の演奏を聴くたびにそれぞれの女性を想い描いてしまう。
そう、初めてエストレリータに出会ったトリオ・ロス・パンチョスの演奏は、十代前半とはいえ何だか胸に迫って無性に切なかった。
枯れ草というか、麦わらの乾いた匂いがしていた。明るい陽射しを後ろから受けて、幾筋かの浮いた髪の毛がきらきらと光っているのを覚えた。いつも遠くから眺めているだけだった‥確か大きな果樹園の娘だった‥。
あれから何十年、今もきっと笑い顔の眼の縁や口元に昔の面影を残し、見ているだけでうれしくて懐かしくて思わず目頭が熱くなる、遠い風を感じさせる女性であろうに違いない‥。
表通りから少し離れた静かな街角にひっそりとたたずむ小さな写真館のウインドーに、その写真はあった。おかっぱの髪を軽く内側にカールさせて、膝小僧の出た脚とつま先を揃えて踵を浮かせ、クラシックでちょっとデコラティブな曲線の美しい布張りの大きな椅子にちょこんと座っていた。前に、膝の上に揃えた手と、ちょっと傾げて顎を引きはにかんでいる仕草が可愛かった。
見たこと無いけど何処の子だろう、と通りかかるたびに、いや時にはその写真に会いたくて遠回りをして、そっと眺めあれこれ思いながら通った。
ある時その写真館の前を通りかかると、突然入り口のスイングドアが内側から開き、真っ赤なジャンパーを着て、それほど長くはないにもかかわらず髪を後ろに束ねた中学生位の女の子が出てきた。
(あっ!そうか、ここの子だったのか!)写真よりかなり大人びてはいたが、すぐに分かった。手にはヴァイオリンのケースを提げていた。
(彼女はヴァイオリンを弾くんだ━)なお一歩離れた存在になるのを覚えた。が、何故かなぜか彼女のことが気になって仕方がなかった。
ベニー・グッドマンのクラリネットが奏でるエストレリータには一歩隔てた、どうしてもそれ以上は近づけない毅然とした品のようなものがある。ただその一歩の隔たりがあるからこそどうにも離れられない、いわば手の届かない淑女に対する憧れのようなものがあるのかも知れない。
好きで好きで堪らない曲だから、聴いているこちらの方が意識過剰になり力んでいるのにもかかわらず、どうしてあんなにもあっさりと演奏できるのだろう!と思うほどグッドマンはサラッと演奏してしまう。我々の勝手な想いなどまるで意に介していない。それがまた、堪らなくいい。
そうだ、もしあの写真館の子に会えたら、あのヴァイオリンでのエストレリータを是非聴いてみたいものだ‥。

ハリー・ジェームスのエストレリータには、偽られ裏切られても耐えながら甘え、表面は明るく装うけな気な女性を思う。
あの「姉妹と水兵」の中での、頬杖を突いたりの水兵たちに囲まれての「エストレリータ」は忘れられない。あの水兵たち一人一人の瞳の奥に、それぞれのエストレリータがいた。
ピート・ファウンテンのエストレリータには、事が終わって髪をかき揚げながら起き上がる緩慢な仕種に、淫らさとともに熟練した生活観が漂う美しい熟女を思う。
いずれのエストレリータも、演奏を聴いた時の今と、余計なお節介だがその後どうしたかが気にかかる‥。
故鈴木章治の甥っ子の、やはりクラリネットの鈴木直樹にそんな「エストレリータ」の話をすると、その直後のライブで彼が「エストレリータ」を演った。20年近い付き合いだが彼の「エストレリータ」を聴くのは初めてである。
ミディアムテムポで軽く、グッドマンスタイル(グッドマントリオがテーマのライブだった)の演奏だったが、そこにいたのは学園生活を謳歌している明るい女子高生だった。今後、鈴木直樹の中のエストレリータがどんな女性に変化をしていくかが楽しみだ。
噺家もそうだが、ミュージシャンも付き合いだと思う。段々だんだん、歳を経るに従って、演奏の質が内容が変わっていくのを聴きながら楽しむ‥ジャズの面白みでもある。
「エストレリータに会いたい‥」
エストレリータに限らず、曲を女性になぞらえて聴いていると、同じプレイヤーでも演奏の出来不出来によって、あるいは編成によって、編曲によって、いろいろな女性が浮かび上がってくる。ロアルト・ダールがワインを女性になぞらえていうように(ロアルト・ダール著「味=Taste」)━。ジャズにはそんな出会いの歓びがある。
「Have You Met Miss Jones?」。ところで、もうあなたは「ミス・ジョーンズに会いましたか?」。
随分前になるが仕事で地方へ行った時、ホテルで夜中に所在無くテレビのチャンネルをあちこちへやっていると、古いアメリカ映画の「姉妹と水兵」に出くわした。思わぬ儲け物をしたと見入ってしまった。
というのはこの「姉妹と水兵」(原題「Two Girls And A Sailor」1944年アメリカ)には、主演のヴァン・ジョンソンやジューン・アリスン、グロリア・デ・ヘヴンなどの他、まだバリバリのハリー・ジェームスやザビア・クガートが彼らの楽団とともに出演しており、特にハリー・ジェームスはア・カペラのトランペットで「エストレリータ」を吹いているのである。
それに地方のホテルで深夜この映画に巡り合わせたあの時は、観たい観たいと思いつつもまだ観ていなかったから、まさに小躍りして喜んだ。しかもあの頃はハリー・ジェームス(1983没)もザビア・クガート(1990没)もまだ盛んに演奏活動をしていたから、彼らのナマの空気を感じ取りながら観ることができたのが、今考えればうれしい。
それに「エストレリータ」は、中学生の頃から特別の想いを感じつつある大好きな曲だったから、しかも旅の空の下多少なりとも寂寥感に染まりつつ観て聴いたものだから、なんとも言えない感慨に陥ったことを憶えている。
「エストレリータ」を初めて聴いたのは前述のように中学生の時、トリオ・ロス・パンチョスの歌と演奏だった。レキントギターの硬く高く弾けるような音と彼らの独特のハーモニーで、初めて聴いたのにも関わらず懐かしい想いがしたものだった。スペイン語は皆目分からなくても、何回も聴いているうちに曲想は微に入り細に入り噛み締めることができた。そしてすっかり「エストレリータ」に恋してしまった。
マヌエル・ポンセ(1882-1948 メキシコ)の書いた曲(作詞・作曲)がいいのか、トリオ・ロス・パンチョスの演奏が良かったのか‥とにかく泣きたいくらいに良かった。その後、様々な「エストレリータ」を聴いた。が、どの演奏もそれぞれ心に響くのは、やはり曲がいいのだろう。King Of Swingと呼ばれたクラリネットのベニー・グッドマン、それに前述のハリー・ジェームス、そしてニューオルリンズ派のやはりクラリネットで馬鹿テクのピート・ファウンテンetc.etc.
「エストレリータ」とは「小さな星」という意味だという。恋する乙女心をエストレリータ(小さな星)に託して彼に伝えたい、という歌詞らしい。(スペイン語に長けている方にお聞きすると、男女どちらでもいいとのこと。)
が、初めて聴いた時から、「エストレリータ」は女性の名前だとかってに思い込んでいるから、いろいろな人の演奏を聴くたびにそれぞれの女性を想い描いてしまう。
そう、初めてエストレリータに出会ったトリオ・ロス・パンチョスの演奏は、十代前半とはいえ何だか胸に迫って無性に切なかった。
枯れ草というか、麦わらの乾いた匂いがしていた。明るい陽射しを後ろから受けて、幾筋かの浮いた髪の毛がきらきらと光っているのを覚えた。いつも遠くから眺めているだけだった‥確か大きな果樹園の娘だった‥。
あれから何十年、今もきっと笑い顔の眼の縁や口元に昔の面影を残し、見ているだけでうれしくて懐かしくて思わず目頭が熱くなる、遠い風を感じさせる女性であろうに違いない‥。
表通りから少し離れた静かな街角にひっそりとたたずむ小さな写真館のウインドーに、その写真はあった。おかっぱの髪を軽く内側にカールさせて、膝小僧の出た脚とつま先を揃えて踵を浮かせ、クラシックでちょっとデコラティブな曲線の美しい布張りの大きな椅子にちょこんと座っていた。前に、膝の上に揃えた手と、ちょっと傾げて顎を引きはにかんでいる仕草が可愛かった。
見たこと無いけど何処の子だろう、と通りかかるたびに、いや時にはその写真に会いたくて遠回りをして、そっと眺めあれこれ思いながら通った。
ある時その写真館の前を通りかかると、突然入り口のスイングドアが内側から開き、真っ赤なジャンパーを着て、それほど長くはないにもかかわらず髪を後ろに束ねた中学生位の女の子が出てきた。
(あっ!そうか、ここの子だったのか!)写真よりかなり大人びてはいたが、すぐに分かった。手にはヴァイオリンのケースを提げていた。
(彼女はヴァイオリンを弾くんだ━)なお一歩離れた存在になるのを覚えた。が、何故かなぜか彼女のことが気になって仕方がなかった。
ベニー・グッドマンのクラリネットが奏でるエストレリータには一歩隔てた、どうしてもそれ以上は近づけない毅然とした品のようなものがある。ただその一歩の隔たりがあるからこそどうにも離れられない、いわば手の届かない淑女に対する憧れのようなものがあるのかも知れない。
好きで好きで堪らない曲だから、聴いているこちらの方が意識過剰になり力んでいるのにもかかわらず、どうしてあんなにもあっさりと演奏できるのだろう!と思うほどグッドマンはサラッと演奏してしまう。我々の勝手な想いなどまるで意に介していない。それがまた、堪らなくいい。
そうだ、もしあの写真館の子に会えたら、あのヴァイオリンでのエストレリータを是非聴いてみたいものだ‥。

ハリー・ジェームスのエストレリータには、偽られ裏切られても耐えながら甘え、表面は明るく装うけな気な女性を思う。
あの「姉妹と水兵」の中での、頬杖を突いたりの水兵たちに囲まれての「エストレリータ」は忘れられない。あの水兵たち一人一人の瞳の奥に、それぞれのエストレリータがいた。
ピート・ファウンテンのエストレリータには、事が終わって髪をかき揚げながら起き上がる緩慢な仕種に、淫らさとともに熟練した生活観が漂う美しい熟女を思う。
いずれのエストレリータも、演奏を聴いた時の今と、余計なお節介だがその後どうしたかが気にかかる‥。
故鈴木章治の甥っ子の、やはりクラリネットの鈴木直樹にそんな「エストレリータ」の話をすると、その直後のライブで彼が「エストレリータ」を演った。20年近い付き合いだが彼の「エストレリータ」を聴くのは初めてである。
ミディアムテムポで軽く、グッドマンスタイル(グッドマントリオがテーマのライブだった)の演奏だったが、そこにいたのは学園生活を謳歌している明るい女子高生だった。今後、鈴木直樹の中のエストレリータがどんな女性に変化をしていくかが楽しみだ。
噺家もそうだが、ミュージシャンも付き合いだと思う。段々だんだん、歳を経るに従って、演奏の質が内容が変わっていくのを聴きながら楽しむ‥ジャズの面白みでもある。
「エストレリータに会いたい‥」
エストレリータに限らず、曲を女性になぞらえて聴いていると、同じプレイヤーでも演奏の出来不出来によって、あるいは編成によって、編曲によって、いろいろな女性が浮かび上がってくる。ロアルト・ダールがワインを女性になぞらえていうように(ロアルト・ダール著「味=Taste」)━。ジャズにはそんな出会いの歓びがある。
「Have You Met Miss Jones?」。ところで、もうあなたは「ミス・ジョーンズに会いましたか?」。
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