我が名作・名曲趣向とスマートホン
新し物好きな私は、珍しくしばらく使っていた携帯電話を買い換えたいと思った。
タブレット型の端末機能も備えた、今話題のあのスマートホンにしようかと、各社各機種をあたり始めた。
電子メール機能はある、Webブラウザを内蔵してネットには接続できるはで電子書籍は読める、音楽は好きな曲を何百曲もダウンロードしていつでも好きな時に聴けるのである。
こんなうまい話はない。どこへ行こうがいつでも好きな本が読め、大好きな音楽がどんどん連続して聴け、新聞を読みたくなればいつだって読みたい記事が即座に読めるのである。
一人であちらこちらをうろうろしながら楽しむのにはもってこいである。
ところが、ふと思ったのである。
それらの便利で楽しい機能を使っている自分を想像してみたのである。が、どう想像してもさほど楽しんでいるとは思えない。
これだけの高い機能性と趣向性が一致しているのだから、こんな快適なことはあるまい。と思うのだが、どうやらそうではないらしい。私は相当な天邪鬼である。
私は自分の関係しているライブやコンサートを記録するために、ICレコーダを持っている。外部マイクが使え音質も良く、少なくとも5時間ぐらいは連続して録音できる能力が欲しく、しかも小型・軽量、操作もカンタン。という視点から何年も探した結果手に入れたものである。
そのICレコーダは容量が2GM(今はもっとグーンと大きくなっているが)あるから、かなりの高音質でも5時間分どころか相当な曲数入れられる。だから外出時には好きな曲を抜粋してあれこれ入れ、大いに楽しめると考えていた。が、実はそういう聴き方はほとんどしていない、ということに気がついたのである。
何故しないんだろう、と考えてみると━どうやら、好きな曲だけが聴かれればいい、ということだけではないらしい。
自分の人生の中で、普段音楽を聴くという行為の大半がレコードであり、CDを通して聴いている。しかも好きな曲だけをピックアップして聴いていたわけではない。いつも常に頭から最後まで、繰返し聴いていたのである。
昔入り浸っていたジャズ喫茶でもいい演奏・曲に出会うと、そのアルバムのジャケットを確かめ、その他に収録されている曲を確かめ、じっと聴き入ったものである。
言い換えればレコードやCDは、プレイヤーの作品として受け取り聴いていきた。
だから気に入った演奏・曲の入っているレコードはトップの曲から、気に入った曲の前後の曲、さらに曲間の空間まで楽しんでいた。
街をぶらぶら歩きながら、さっき聴いたレコードの曲順に従って想い起こしながら、頭の中で聴き入っていた。そうこうしているうちにそのレコードへの想いがドラマになって、それらの曲と共に心の奥に刻み込まれていった。
45~6年前に初めて聴いた『Vic Dickenson Showcase』(ヴィック・ディッケンソン ショウケース)の中の「When You And I Were Young, Maggie」(マギー、二人が若かった頃)は、そう初めて聴いたのにもかかわらず懐かしい思いがした。以来、繰り返し繰り返し聴き、いつしか一緒にレコーディングされていた「Running Wild」、「Jeepers Creepers」、「Old Fashioned Love」などもすっかり好きなナンバーになっていた。
ヴィック・ディッケンソンのトロンボーンとともにのどかで、どこかとぼけた土の匂いのする懐かしさが、すっかり私の中で育っていった。

もちろんジャケットのデザインもそのレコードを楽しむ大きな要素だった。
レコードからCDの時代になって一番残念だったのが、このジャケットである。レコードの大きさがあったからこそジャケットが、さらにレーベルのデザインが生きたのである。
私にとって音楽の、特にジャズはレコードであり、そのレコードの曲群とジャケットのデザインが私自身のドラマとなって生きているのである。
つまりレコードを、CDを聴くと作品を鑑賞した達成感がある。時々必要に応じて好きな曲だけピックアップして聴くことがあるが、それは聴いたということだけで、何かを確かめたに過ぎないことなのである。
実はこの鑑賞したという達成感が大事なのである。
そういうことで言えば、ニュースを知るという意味からはネットでニュースを観る(読む)のもいい。ただ、だからといって新聞が要らないということにはならない。
ニュースだからどういう手段で得ようが内容に変わりは無い(解説や考察は違うかもしれないが)。やはりここでも知ればいいということだけでは終われないのである。
ここでも新聞を読むという達成感が大事なのである。
ましてや書籍となると、なおさらである。電子書籍の便利さはもちろん認めているし、それに自分でも欲しいと思う。が、本を読んだと言う達成感が得られないのではないかと心配する。
昨年4月にアレクサンドラ・デュマの「モンテクリスト伯」全7巻(文庫本)を読んだという話を書いた(「50年後の、復讐」)。
今の私にとって全7巻を読破するということは、精神的にも体力的にもかなりエネルギーが必要となる。それを押しても読破するのは中味が面白いということもさることながら、途中途中、読み進むうち残りページが少なくなっていく快感。さらには1巻1巻読み終えた時の達成感が堪らないのである。
終わりに近づくと、この面白さを長引かせようとゆっくりと読んだりして楽しんだりもする。ページを繰る楽しみ、本に挑む悦びなのである。
電子書籍ではこうはいかない、だろう。
この稿を途中まで書いていて、今朝の朝日新聞で(2月25日)、「ひと」欄に装丁家の桂川 潤氏という方が愛用の情報端末「iPad」で小説を読んだとして、「どこを読んでいるのか分からない。冊子ではなく巻物。目がすごく疲れます」と言っているのを読んだ。
これは、私は多分ストレスだと思う。我々は無意識のうちに本の厚さなどからストーリー(内容)の全量を知り、ページを繰るごとに、読み終えた量、残りの量を見ながら自分の位置を推し量っているのである。
ところが電子書籍は読んでいるページだけがディスプレーに出てくるだけだから、自分が今どの辺りにいるのか皆目検討がつかない。私の場合だとこれは相当なストレスとなり、読む意欲が半減すると思う。
先ほどの音楽の話しに戻るが、私は何十枚かのCDの中から好きな曲を十数曲選び出し、1枚のCDをプライベート用に作ることがある。
好きな曲だけを取り出して聴いているじゃないか、と言われそうだが、これもただ単に好きな曲だけを並べて聴いているのではない。コンセプトを立て、演奏内容、あるいは楽器などを考え曲順を構成し、1枚の自分専用のCDとして作り上げ、そのドラマを楽しんでいるのである。
どんどん時代は進んでいくのにも関わらず、相変わらず古き良きものから離れられないでいる。
とはいえ私はあのスマートホンに、いずれ近く変えるだろう。どう使うかは別にして、あんな面白そうなものを私が我慢できるはずが無い。
タブレット型の端末機能も備えた、今話題のあのスマートホンにしようかと、各社各機種をあたり始めた。
電子メール機能はある、Webブラウザを内蔵してネットには接続できるはで電子書籍は読める、音楽は好きな曲を何百曲もダウンロードしていつでも好きな時に聴けるのである。
こんなうまい話はない。どこへ行こうがいつでも好きな本が読め、大好きな音楽がどんどん連続して聴け、新聞を読みたくなればいつだって読みたい記事が即座に読めるのである。
一人であちらこちらをうろうろしながら楽しむのにはもってこいである。
ところが、ふと思ったのである。
それらの便利で楽しい機能を使っている自分を想像してみたのである。が、どう想像してもさほど楽しんでいるとは思えない。
これだけの高い機能性と趣向性が一致しているのだから、こんな快適なことはあるまい。と思うのだが、どうやらそうではないらしい。私は相当な天邪鬼である。
私は自分の関係しているライブやコンサートを記録するために、ICレコーダを持っている。外部マイクが使え音質も良く、少なくとも5時間ぐらいは連続して録音できる能力が欲しく、しかも小型・軽量、操作もカンタン。という視点から何年も探した結果手に入れたものである。
そのICレコーダは容量が2GM(今はもっとグーンと大きくなっているが)あるから、かなりの高音質でも5時間分どころか相当な曲数入れられる。だから外出時には好きな曲を抜粋してあれこれ入れ、大いに楽しめると考えていた。が、実はそういう聴き方はほとんどしていない、ということに気がついたのである。
何故しないんだろう、と考えてみると━どうやら、好きな曲だけが聴かれればいい、ということだけではないらしい。
自分の人生の中で、普段音楽を聴くという行為の大半がレコードであり、CDを通して聴いている。しかも好きな曲だけをピックアップして聴いていたわけではない。いつも常に頭から最後まで、繰返し聴いていたのである。
昔入り浸っていたジャズ喫茶でもいい演奏・曲に出会うと、そのアルバムのジャケットを確かめ、その他に収録されている曲を確かめ、じっと聴き入ったものである。
言い換えればレコードやCDは、プレイヤーの作品として受け取り聴いていきた。
だから気に入った演奏・曲の入っているレコードはトップの曲から、気に入った曲の前後の曲、さらに曲間の空間まで楽しんでいた。
街をぶらぶら歩きながら、さっき聴いたレコードの曲順に従って想い起こしながら、頭の中で聴き入っていた。そうこうしているうちにそのレコードへの想いがドラマになって、それらの曲と共に心の奥に刻み込まれていった。
45~6年前に初めて聴いた『Vic Dickenson Showcase』(ヴィック・ディッケンソン ショウケース)の中の「When You And I Were Young, Maggie」(マギー、二人が若かった頃)は、そう初めて聴いたのにもかかわらず懐かしい思いがした。以来、繰り返し繰り返し聴き、いつしか一緒にレコーディングされていた「Running Wild」、「Jeepers Creepers」、「Old Fashioned Love」などもすっかり好きなナンバーになっていた。
ヴィック・ディッケンソンのトロンボーンとともにのどかで、どこかとぼけた土の匂いのする懐かしさが、すっかり私の中で育っていった。

もちろんジャケットのデザインもそのレコードを楽しむ大きな要素だった。
レコードからCDの時代になって一番残念だったのが、このジャケットである。レコードの大きさがあったからこそジャケットが、さらにレーベルのデザインが生きたのである。
私にとって音楽の、特にジャズはレコードであり、そのレコードの曲群とジャケットのデザインが私自身のドラマとなって生きているのである。
つまりレコードを、CDを聴くと作品を鑑賞した達成感がある。時々必要に応じて好きな曲だけピックアップして聴くことがあるが、それは聴いたということだけで、何かを確かめたに過ぎないことなのである。
実はこの鑑賞したという達成感が大事なのである。
そういうことで言えば、ニュースを知るという意味からはネットでニュースを観る(読む)のもいい。ただ、だからといって新聞が要らないということにはならない。
ニュースだからどういう手段で得ようが内容に変わりは無い(解説や考察は違うかもしれないが)。やはりここでも知ればいいということだけでは終われないのである。
ここでも新聞を読むという達成感が大事なのである。
ましてや書籍となると、なおさらである。電子書籍の便利さはもちろん認めているし、それに自分でも欲しいと思う。が、本を読んだと言う達成感が得られないのではないかと心配する。
昨年4月にアレクサンドラ・デュマの「モンテクリスト伯」全7巻(文庫本)を読んだという話を書いた(「50年後の、復讐」)。
今の私にとって全7巻を読破するということは、精神的にも体力的にもかなりエネルギーが必要となる。それを押しても読破するのは中味が面白いということもさることながら、途中途中、読み進むうち残りページが少なくなっていく快感。さらには1巻1巻読み終えた時の達成感が堪らないのである。
終わりに近づくと、この面白さを長引かせようとゆっくりと読んだりして楽しんだりもする。ページを繰る楽しみ、本に挑む悦びなのである。
電子書籍ではこうはいかない、だろう。
この稿を途中まで書いていて、今朝の朝日新聞で(2月25日)、「ひと」欄に装丁家の桂川 潤氏という方が愛用の情報端末「iPad」で小説を読んだとして、「どこを読んでいるのか分からない。冊子ではなく巻物。目がすごく疲れます」と言っているのを読んだ。
これは、私は多分ストレスだと思う。我々は無意識のうちに本の厚さなどからストーリー(内容)の全量を知り、ページを繰るごとに、読み終えた量、残りの量を見ながら自分の位置を推し量っているのである。
ところが電子書籍は読んでいるページだけがディスプレーに出てくるだけだから、自分が今どの辺りにいるのか皆目検討がつかない。私の場合だとこれは相当なストレスとなり、読む意欲が半減すると思う。
先ほどの音楽の話しに戻るが、私は何十枚かのCDの中から好きな曲を十数曲選び出し、1枚のCDをプライベート用に作ることがある。
好きな曲だけを取り出して聴いているじゃないか、と言われそうだが、これもただ単に好きな曲だけを並べて聴いているのではない。コンセプトを立て、演奏内容、あるいは楽器などを考え曲順を構成し、1枚の自分専用のCDとして作り上げ、そのドラマを楽しんでいるのである。
どんどん時代は進んでいくのにも関わらず、相変わらず古き良きものから離れられないでいる。
とはいえ私はあのスマートホンに、いずれ近く変えるだろう。どう使うかは別にして、あんな面白そうなものを私が我慢できるはずが無い。
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