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浦メシ屋奇談

音楽のこと(特にSwing Jazz)、ミステリーのこと、映画のこと、艶っぽいこと、落語のこと等々どちらかというと古いことが多く、とりあえずその辺で一杯やりながら底を入れようか(飯を喰う)というように好事家がそれとなく寄合う処。“浦メ シ屋~っ!”

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風の記憶

我々は死ぬまでの間に何人の人と出会い言葉を交わし、そしてお互いにどんな影響を与え合えるのだろうか。

(そういえばあいつどうしているかな、たまには会いたいな!そのうちに連絡してみよう!)
今までだったら、それで終わっていた。ところが近頃は、そんな風に感じた1年後くらいの間に亡くなったという知らせを聞くことがままある。
そんな時は、一度は会いたいなと思っていただけに、悔恨の念に苛まれる。
面倒くさがらず、会いたいと思ったらその足で訪ねればよかった。
以来、余り考えずにアポを取り出かけることにしている。

例え付き合いは浅くとも、訃報を聞いて(そうか、残念だな‥)だけで済まし終わらせられないのがこの頃である。
あの頃、あの人とは短い期間だったが、そう深くはないが関わりあい、こうして名前や面影はもちろん仕草も口調も憶えている。
長い人生で言えばほんのすれ違っただけのような関わりあいだけに、その後の自分の道程と照らし合わせるかのように、あの人も知らないところで頑張られていたんだとしみじみ思う。

普段は想い出すこともないのだが、亡くなられたということが感慨を新たにし、自分の中でのその人の存在が新しい意味をもってくることがある。
それは単に懐かしいというようなこととも違う。亡くなられたからこそその人の世界を垣間見ることができ、また触れることができることが多いのだ。
人の生きていくことの凄さを改めて感じ、反面その凄さが一瞬にして止まる死とは何なんだろうと考え込んでしまう。
作品1

40年ほど前、まだ駆け出しのコピーライターの頃、3年ほど同じプロダクションで一緒に仕事をした方がいた。
一緒に仕事をしたといっても私は広告制作部門で、その方は百科事典などの編集部門で絵を描いておられた。
あまり顔を合わすことはないが、新聞や雑誌広告のアイディア・スケッチやテレビ・コマーシャルのストーリー・ボードの絵を描いてもらっていて、その時々にお話をするくらいだった。

宮下(勝行-まさつら)さん。
かなり上背もあり、髪を伸ばしがに股ですたすたと歩くさまを見ると何だろうこの人はと思うほどだが、めがねの奥の眼は優しく、口調は穏やか‥
我々の仕事のために描いていただく絵は、下絵の鉛筆が走り、その上の水彩の淡い色合いが何とも言えない、そのまま自分で持っていたいような絵だった。
撮影前のポスターなどのイメージコンテなどの大きな絵はもちろん、雑誌広告やリーフレット用の小さな絵なども見事だった。

かつての広告業界には、広告などのアイディアをスポンサーに見せるためにすべて絵に描くカンプ(comprehensive)マンという専門職がいたが、当然といえば当然のことだが宮下さんの絵はそんなカンプマンの絵とはまったく違っていた。
アートディレクターやデザイナー連中と出来上がった絵を見ながら、ほとほと感心していたものだ。
もともとは東京芸大の油絵を出られて画家として創作活動をされながら、我々の仕事を手伝っていてくれたらしい。
その頃すでにシェル美術賞(’62年)などをとられている等、実績のある画家であったのだ。
そんな方に、仕事とはいえ作品にもならない我々の絵を描いていただくことが心苦しかった。仲の良かったアートディレクターと、当時よくそんな話をしたことを想い出す。
作品2

そのプロダクションから私は広告代理店に変わり、しばらくしてその親しかったアートディレクターも若くして亡くなってしまった。
以来、当時のことをほとんど想い出さなくなっていた。
そんな折、ついこの間、同じプロダクションで宮下さんと組んで仕事をしていた女性のアートディレクターから、久し振りに電話があった。
「宮下さんが紀伊国屋で個展をやってるの。今度の土曜日、行かない?あ、そうそう、宮下さん亡くなったのよ!」

「ああ、そう‥」
私はそういったきり、言葉が出なかった。
そう親しくもなく、顔を合わせていた期間も40年ほど前のほんの3年ほど‥。あの厳つい体つきと歩き方、そして髪。それに何故か下絵の、走った鉛筆の跡と淡い水彩の色合いが頭を過ぎった。
そうですか、亡くなられましたか‥

翌週、その個展の最終日の火曜日に、新宿の紀伊国屋画廊に行った。
『宮下勝行展-遺作-』

考えてみれば私は宮下さんの世界をまったく知らなかった。初めて観た。
観る人によってはおどろおどろしいととるかもしれない。
前回の作品展の時の方が、もっとおどろおどろしかった、と話されているのが聞こえた。
今まで頭の中にあった宮下さんのイメージと、あまりにもギャップがあったので一瞬驚いたが、すぐに私は初めて接する宮下さんの世界に入り込んでしまった。
私にはむしろ快適だった。どの作品も内容に伴う色の変化が何とも快かった。

宮下さんはリヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」を好まれて聴いておられたそうだ。
私はリヒャルト・シュトラウスはあまり、いや殆ど聴かないので分からないが、私が宮下さんの絵を観てドキドキするような快感を感ずるのは、私が小学生の頃むさぼるように読み耽った「宝島」や「ガリバー旅行記」、あるいは「15少年漂流記」、さらにエドガー・アラン・ポーの「黄金虫」や「メールシュトレームの大渦」などに対峙した時と同じなのである。
作品3

「対峙した時」と敢えていうのは、この途中で止めるなんてとてもできない興味ふんぷんの不可思議で恐ろしいドラマは、実は自分とはまったく関係のないところで起きていて、自分は映画のスクリーンを観るようにただただ心底から楽しめるんだと言う快感なのである。
ある意味、そのドラマには無関係なだけに楽しんでいられるという下世話な楽しみ方ともいえよう。
とはいえそのドラマの出来が良くなくては面白がれないのは当然のことである。

宮下さんの作品には、私が忘れていたドラマに対する興奮を思い起させてくれたよう気がする。
音楽体験で言えば、やはり小学生の頃ムソルグスキーの「禿山の一夜」を初めて聴いた時の興奮に似ている。
私は絵画をちゃんと評することなどできない。が、宮下さんの作品には、いままで絵画に対してそんな風には感じたことのない、不思議なドラマを感じた。

その宮下さんはもういないと言う。
40年ほど前、打ち合わせに会社を出て駅に向かっていると、少し遅く出勤してくる宮下さんと会うことがあった。
バッグを抱えて(確かいたと思う)ガニ股ですたすたと歩いて来て、挨拶とともに一言二言言葉を交わしてすれ違う。
無造作に伸ばした髪がなびき、ふわっと風を感じた。

そんなに付き合いがあったわけでもない。しかしもうお会いできないと知った途端に印象強く心に刻み込まれる‥長い人生の間にはそんな方もいるものである。

※宮下さんの奥様の許しを得て、会場で作品を撮らせていただいた。
ここに何点か紹介させていただくが、私のカメラ技術が稚拙なために微かに歪んでいたり、大切な色彩が正確に出せていない。平にお許しいただきたい。

| 雑感 | 18:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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